いきいきと働けるようになった僕の歩み
2018年 5月20日(日)開催
※この文章は「エピソードトーク講演会 第1話 」にてお話しいただいた内容です。
講演者
いきいきと働き、ひとに寄り添える仲間の会 Alive代表 西村祐亮 さん
大人になってわかった発達障害。障害とともに会社員として働く、現在のありのままをお話しいただきました。
はじめに
今までつらいことを経験し、ハートキーパーの会の座談会に参加したこともありました。これまでに、さまざまな場所でいろんな人に出会って、少しずつ気持ちが前向きになっていきました。自分も人の痛みを受け止められるハートキーパーになれたらいいなと思い、自分の経験を活かしてできることをと、人からの助言もあって「働く」に特化した「Alive」を立ち上げました。
にしむーです。もうすぐ40歳になります。大手保険会社に勤務しています。趣味はドライブ、特技はトロンボーンの演奏や紙芝居です。僕は広汎性発達障害と診断されて、障害者手帳の2級を持っています。
障害がわかるまでは、一般枠で働いてきましたが、今は障害者枠で勤務しています。目に見える身体の不自由はありません。今日は、「いきいきと働けるようになった僕の歩み」と題して、過去の経験と今働いている現状をお話しします。
10の転職と主な挫折
22才で大学を卒業したときは、障害のしの字もありませんでした。少しいじめにあって、ちょっと変な子と言われたり、高校の頃は、授業以外は相談室に引きこもりぎみだったり、ということもあったけれど、発達障害なんて知りませんでした。高校生のときは、人助けなど人の支援をする仕事に憧れ、社会福祉学部の学校を受験したけど落ちちゃって、地元の大学に行きました。教職課程もとって無事卒業し、社会人生活をがんばろう!と意気込のですが、そこからが大変だったんです。
35才で発達障害の診断を受けました。卒業したのが22才。13年間で10回転職したということです。ということは、1年続いたのがいくつか。働いている期間がどれも短いんです。どういうこと?ということで、順にエピソードを見ていきましょう。
最初は、知的障害者の更生施設で働いていました。金沢で一人暮らしをしていましたが、3年目に体調を崩し、神経内科にいきました。胃潰瘍と診断され、朝起きられなくなって、遅刻や休ませてもらう日が増えました。精神科を受診したら、うつ病でした。
仲が良かった先輩の異動でさみしくなったことや、好きだった音楽療法の仕事ができなくなったなど、自分の思うようにいかなかったことがきっかけになったように思います。2週間の休職を2回とりましたが、復職したら仕事がなくなっていました。当時は、「夜勤ができて一人前なんだからね」とも言われました。うつ病の薬を飲みながら利用者さんの相手をすることを、変な色眼鏡で見られていました。僕って必要とされていないんだなと感じて、アパートでオーバードーズしてしまい、気が付いたら、夜中に国道をはだしで歩いていました。慌てて自分で救急車を呼びました。
一人暮らしをやめて、これからは高齢者の時代だ!と、ホームヘルパーの資格を取得しました。実務3年で介護福祉士の受験資格がもらえるので、それも取得し、介護付き有料老人ホームに転職しました。しかし、変則勤務で、うつと不眠が出てきました。実は、うつ病の薬はパッと止めちゃいけないんですが、きつい仕事を辞めたんだから、もう病院にも通わなくていいよと親に言われ、通院も薬も止めていました。再度、医科大を受診しました。職場の人との人間関係がうまくいかないことがあり、利用者の前で主任にこっぴどく怒られたことで、かんしゃくを起こしちゃったんでしょうね。人気のないところでリストカットをしてしまいました。16針を縫う大けがでした。
職歴の失敗を上げればきりがないんです。ハローワークで2種免許を取得していたので、これで稼げるならいいかなと、掛け持ちで代行運転のアルバイトをしていたんですが、居眠り運転をしてしまいました。主治医には、薬で昼夜をコントロールしなければいけない人が夜の仕事はしちゃだめだよ~と怒られてしまいました。老人施設では、仕事が覚えられず2ヵ月でだめ。職探し中に映画館のアルバイトをしてちょっとお休み。本屋の店員では、忙しいとパニックになりました。手先が不器用なので、本のプレゼント包装が何度やってもできないんです。次のヘルパーステーションでは、車の管理をしていましたが、公用車で大事故を起こしました。障害者施設の医療センターで職員からいじめにあい、3ヵ月で辞めました。次の医療福祉社団では、障害のことを隠したまま面接を受け採用となっていましたが、薬をとりに行くきっかけでばれました。そして、葬祭業もやりました。仕事は見て覚えろという社風でトライアルの3ヵ月で辞めました。
次は学童保育、高齢者介護施設。資格のある福祉の仕事に戻ってみたけれど、ブランクがありました。また、言葉だけで言われても指示の内容がわからなくて困りました。お風呂の介助なら頭を洗ってとかわかりやすいですが、「フロアにいる人の保安をして」という指示では、何をしたらいいのかわからない。具体的な指示がないと、言葉の通り受け止めてしまう僕の場合はうまくいかなかったんです。そして、パニックやうつをぶり返しました。
発達障害とわかった僕
なんでこんなにうまくいかないのかな?そう考えていたところに訪れた人生の転機は平成25年1月でした。主治医の先生から「発達障害じゃない?」と言われ、うつ病の薬は中止しました。発達障害支援センターに行って相談してみてくださいと言われました。そこで、ウエイス3(能力診断テスト)を受けました。IQも図られます。結果は、典型的な広汎性発達障害でした。
この頃はデイサービスの仕事をしていて、しばらくは様子を見ることになり、センターの支援員さんと定期的な面談もしていました。いわゆる傾聴だけの面談ではなく、「そんなときはこうしたらよかったんだよ、こうしてみたらどう?」といった、具体的な意見を教えてくれました。はっきり言ってもらえるので僕にはとても助かりました。
発達障害とは、生まれつきの脳機能の発達のアンバランス・凹凸と、その人が過ごす環境・周囲の関わりのミスマッチから、社会生活に困難が出てしまう障害です。
発達障害は、ADHD、注意欠陥多動性障害、自閉症、アスペルガー、LDをまとめた総称です。その症状は千差万別で、いくつもの特徴が重なっていることもあります。
例えば「人の話が聴けない」というのは、個性の問題じゃないの?とも言われますが、違います。一見すると誰にでもありそうなことでも、職場で多くの人と交流がある場において適応できず、毎日など頻繁に起こることで社会生活に影響を及ぼし、生きづらさとして表れていると発達障害となります。
では、僕の「広汎性発達障害」とは、どんなものなのか。3つの問題を持っています。
- 社会性:深い人間関係を築くのが苦手、友達が少ない、暗黙のルールがわからない
- コミュニケーション:冗談や皮肉がわからない、言葉をそのまま受け止めてしまう
- 想像力:急な変更に対応できない、考え方のパターンが頑固、白黒はっきりしたい
これに加えて僕の場合は、音や温度変化、においなどの感覚過敏、協調運動の苦手があります。音に関しても、喫茶店で会話している相手の声とBGMが同じボリュームで聞こえて会話しにくいということがあります。
なぜ子ども時代にわからなかったのか?
学校では、正直勉強はできたし、嫌なことがあっても暴れるわけでもなく、いじめは親や教師が守ってくれました。あいつ変わっているなという程度で、特に大きな問題になりませんでした。ところが、社会に出ると徐々にその特徴が問題になってきました。人間関係が築けない、ミスが多い、仕事ができないとなると、信頼がなくなっていきます。専門家の先生でもウツと診断していたように、ウツの裏に発達障害が隠れていたのです。特に、大人の発達障害の症状は千差万別で、個性と言われてしまえば発見されにくく、専門医も少ないです。
なぜ発達障害には「ウツ」が多いのか。変わり者と言われる、勝手な奴と言われる、努力しても結果が出ないということが多く、一般の方よりややストレスやトラウマへの抵抗力が弱いという特徴があります。「どうして気持ちがわからないんだ!という【不理解・非難】に「僕ってだめなんだ」と【挫折】が加わり、それを何度も繰り返すことでウツになっていきます。
僕は、発達障害の診断を受けたとき、ピンと来なかったのでネットや本で調べました。今まで普通だと思っていたのに、障害と1本線をひかれた気持ちになりつらかったです。発達障害者の強い負のイメージが先行して、そういう人になったんだと感じ、低かった自尊感情はさらに低くなりました。もっと早くに障害だとわかれば対処できたのにとも感じました。
「発達障害35才限界説」というのがあります。障害でなくても、男性は転職など何をするにも35歳までにという考えがちまたにはあります。仕事において、経験、管理能力、リーダーシップ、コミュニケーション能力が厳しく問われるようになる年齢です。しかし、経験を積んでものにする能力が低い発達障害者には、年齢相応のスキルがない。それに加えて転職歴が多く、何度もクビにされることで、ますますスキルが身に付きにくいと言われています。一般的にもそうなのに、障害があったら無理でしょ?というのが限界説です。ちょうど35歳を迎え、どうしようと悩んでいました。
平成25年10月、精神障害者手帳を交付していただきました。手帳を取得することで、「本当に障害者になっちゃうよ」と周りの人に反対もされました。だけど、僕はこちらの道に賭けてみることにしました。病院で注意欠陥を抑える薬を処方してもらったら、あら不思議。ものをなくす、忘れる、落とす、力加減がわからず壊すということが減り、発達障害の特徴がだんだんわかってきました。失敗するたびに自己嫌悪は出てくるけども、このモヤモヤした気持ちを何とか変えてやろうと転職に踏み切りました。
現在の僕の仕事と職場の対応
転職活動を始めたのは平成26年6月。ハローワークの障害者窓口の職員と、ヤングハローワーク時代からお世話になっていた産業カウンセラー、金沢市障害者就労支援センターのジョブコーチ、僕の4者面談をしました。障害を隠さずに障害者枠で働くこと、職種は事務職を探すことを決めました。臨機応変な対応が求められる対人援助職は苦手です。昔受けた職業適正テストでは、福祉への興味とともに、ものごとをきっちりする事務的な仕事にも適正が出ていました。しかし、当時は男性で事務職はなかなか募集していない時代でした。また、営業系の仕事も受けた経験もありますが、福祉系の職歴が邪魔をして採用には至りませんでした。介護福祉士は国家資格なのにという想いもありましたが、まずは自分が無理なくできる仕事をこなして心身ともに幸せであることを優先することを選びました。2つ目で採用が決まりました。
現在、任されている仕事は、社内の郵便管理、荷物の受け取り、電話当番、産業廃棄物、書類の管理、会議室の予約など、事務総務です。こういうポジションがあったということがありがたいです。最初はメール室での郵便物を取り扱う仕事だけでした。機械を使って1日に300~400通を処理しています。任せてもらえるのがうれしくて、どんどん仕事が増えていきました。
TV番組で障害者を雇用する企業の社長さんが、お坊さんに言われたことを紹介していました。それは、「人間にとって幸せは、人を愛すること、必要とされること、役に立つこと。」まさに、仕事を任せてもらえることはとても嬉しいことでした。
こうなることができたのは、ジョブコーチのおかげです。ジョブコーチは、障害者が就労するにあたって、できることとできないことを会社に伝達し、円滑に働けるように支援環境を整えてくれる人です。企業内に置くところもあれば、支援センターから出向くところもあります。定期的な評価面接、困ったときの悩み相談をしていただいています。そして一番は、「私の特徴説明」の提出です。病名や病気の特性、仕事のアピールポイント、仕事の上で気を付けていること、配慮していただきたいことなどです。リーダーが転勤で変わることがあったのですが、そのときに提出したところ、リーダーから僕に関わる方たちへ自分との関わり方を伝えてくれることで働きやすくなりました。
仕事をしていて気を付けているのは、とにかくメモ。たくさんのことを言われて一気にメモを取ってもチャラ書きで書くので、これを見ながらでは仕事になりません。しかし、僕はラッキーでした。会社から、午後の通常業務がアイドルタイムに入るので、その時間を使って清書するという提案を受け、マニュアルをつくる作業時間をもらえました。振り返りノートも書いています。Aのやり方からBのやり方に変更になったというときに、いつ誰から言われたかをメモしています。
就業して半年が経ち、そろそろ電話応対もしてみようかという話になりました。電話はいつ誰からかかってくるかがわからないので苦手です。でもまたまたラッキーでした。この会社には電話対応フローがあり、応対がマニュアル化されていました。この部署はお客様との接点もあまりなく、社内の取次電話がほとんどで、電話自体あまりかかってきません。
感覚過敏があるので、電話の声と周りの声が一緒に聞こえてしまう特徴があるのですが、耳栓の使用を許可していただくことで解消できました。まず受話器をとり、耳栓をして、メモを書き始める。その手順で落ち着いて対応できています。
上司や会社からの配慮
上司や会社からの配慮も紹介します。
- 指示は口頭ではなくタックメモで書いてもらう。
- 「もうちょっと」「時間のあるとき」というあいまい表現ではなく、「何分後に」「これが終わったら」と具体的に聞いてもらう。
- できなかったときにどうしたらよかったかのアドバイスをもらう。
2つ以上のことが同時に起こると瞬時に優先順位がつけられなくてパニックになります。例えば、郵便局員さんと社員さんが同時に来た時、今では社員さんが「郵便を先に対応してね、私は待っているから」と声をかけてくれます。
- パニックになった時、人気のないところで落ち着くまで休ませてくれる。
- 障害の支障を和らげてくれる物品の使用を許可してもらう。
- 窓の少ないオフィスでは、感覚過敏で香水の匂いがつらいことがあるので、ファンやリセッシュなどを使って空気を調整する。
その他、上司が発達障害とは何かという本を読んでくれました。ありがたかったです。
一方、僕が努力していることは、いわゆる「報連相」です。障害の特性で、今話しかけていいのかな?とタイミングがつかめなかったり、言うのを忘れたり、独断と偏見で進めていって後で怒られるということがよくあります。言葉でわからなかったときは「それってどういう意味ですか?」とちゃんと聞きなおすようにしています。イージーミスをしないように、チェックリストもつくりました。やったら丸をつけるもので、全部チェックがついたら帰っていいと、視覚的にわかりやすくしました。机の上には卓上カレンダーやtodoリストも活用しています。僕の場合はこうでしたが、発達障害の症状は千差万別です。
そうはいっても、コミュニケーションの障害である発達障害者が働く現実は厳しいです。症状を社内の全ての人にわかってもらえるわけではないので、自分の努力は必要です。部署内の人にわかってもらえるようにするときに、水戸黄門の印籠のように障害者手帳を出して「僕、障害者なんです!」ではなく、「僕こういうところがあるんです」と特徴をカミングアウトしていって、徐々に理解が広がっていきました。
収入は低め、キャリアアップも厳しいというのも現実です。しかし、わずかな収入であっても心身ともに元気な状態で働けるのはいいことです。昼も夜もアルバイトを掛け持ちしてたくさん働けば、今の収入よりたくさんいただける仕事もあるかもしれないけれど、僕は体内時計のリズムと障害の特性に沿った今の働き方を選びました。
精神障害者の雇用義務化がニュースでも言われていますが、満たしている会社はまだまだ少ないようです。僕より年下の人たちで同じように困ってきた人が、働きやすくなったらいいですね。日本は、当事者も会社もお互いに分かり合っていく方向にシフトしています。
大人の発達障害と診断を受けて、マイナスだったイメージを修正して、いろんな面で生きやすくなりました。症状の特徴を押さえれば大丈夫とわかりました。症状だからと甘えずに気を付け、自分で考えて対策をとるようにしています。そして、職業が安定し、相談窓口が増えました。2級の障害者年金をいただいています。会社以外の場所でも特徴を伝えることで、ある程度理解が得られるようになりました。
今いきいきしている理由
①あっち(死後)の世界に行かなかった
仕事をクビになったときも、泣きながらその日にハローワークに行きました。声をかけてくれた優しい職員さんが「君のパフォーマンスを発揮できる仕事は必ずある」と勇気づけられました。とにかく正社員にこだわっていたので、僕はその言葉を信じて頑張りました。
②それぞれの領域で精一杯やる
学校でも仕事でも、「これやって」と任されたことをこなすだけで終わりではなく、その時身に着けたスキルが必ず後で役に立ちます。学べることに感謝します。
③正社員にこだわった
なにくそ根性で、頑張れました。
④早くからハローワークにお世話になった
⑤人生の岐路には誰かいる
⑥自分の得手不得手をわかっている
自分で分かっているからこそ対処できるし、さらけ出すことができます。
最後にメッセージ
- 不安はあって当たり前、まず1歩踏み出そう
- 社会人として、当たり前のことはやろう(挨拶・身だしなみ)
- もっとさらけ出そう、言ったらいいんだよ。
言うことで分かるし配慮もできます。 - 自分のことを助けてくれる人はとことん頼ろう
- キーパーソンをつくろう。この人になら相談できるという人がいると心強いです。
- 得意を1つ持っておく
- 運も縁も必ずある
最初は運のいい人っているの?と思っていました。何かの本で読んで、運のいい人は必ず何かしら努力をしていると知り、偶然じゃないとわかりました。
この会社で働きだして4年目を迎えました。これから少しずつ、キャリアアップも考えて、資格にもチャレンジしていきたいと考えていますが、まずは「いきいきと働き続けること」をやっていきます!
◆いきいきと働き、ひとに寄りそえる仲間の会「Alive」(facebook)
◆西村さんの作文が、第53回「NHK障害福祉賞」入選作品に選ばれました!
「はたらきに ときめきがあれば いきいきできる」[PDF版][HTML版]
(西村 祐亮、40歳、石川県在住、広汎性発達障害、第1部門)